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陸上自衛隊が回収し、 旧日本軍の97式手投げ弾と ブログトップ

北海道古平町歌棄(うたすつ)町の歌棄海水浴場で、 沖合約15メートルの水深約40センチの海中に手投げ弾のようなものがあるのを、 海水浴中の札幌市内の30代女性が見つけた。 [陸上自衛隊が回収し、 旧日本軍の97式手投げ弾と]

おはようございます。
ecarです。

今日は

【手投げ弾 海水浴場の海中で発見】

をお届けします。 



<手投げ弾>海水浴場の海中で発見 北海道・古平
 
17日午前11時ごろ、
北海道古平町歌棄(うたすつ)町の歌棄海水浴場で、
沖合約15メートルの水深約40センチの海中に手投げ弾のようなものがあるのを、
海水浴中の札幌市内の30代女性が見つけた。

 

道警余市署は海水浴場の監視小屋に運んだ後、 約200人いた海水浴客に小屋から離れるよう求めた。

同日夕に陸上自衛隊が回収し、
旧日本軍の97式手投げ弾と判明した。
信管の有無などを確認する。



志願しトラック諸島へ、
指揮する軍属が次々餓死
俳人・金子兜太さん(94)
 
先日、
差出人不明の一通の封書が俳人、
金子兜太さんの埼玉県熊谷市の自宅に届いた。
新聞記事の切り抜きと、
手書きの便箋が1枚。
 


記事は埼玉県のある公民館が、
地元の愛好会が選んだ投稿俳句
「梅雨空に 
『九条守れ』
の女性デモ」
の広報誌への掲載を拒んだことを報じていた。
「世論を二分する問題だから」
が拒否の理由だ。
便箋には
「自由に俳句を作れる世の中に、先生のお力添えをお願いします」
とあった。
 


「誰が送ったか分からんが、
とんでもねえ時代になったと感じているのは私だけじゃないんだね。
どこか変ですか? 
穏やかで平和な句ですよ。
なのに、
今やこんな句までやり玉に挙げられる。
あの時と同じですよ」。
扇風機だけが回る庭に面した書斎で、
金子さんが首を振った。
 


旧制高校時代、
俳句誌
「土上(どじょう)」
を主宰していた俳人、
嶋田青峰に評価され、
投句がたびたび誌面を飾った。
その嶋田は1941年2月、
治安維持法違反容疑で逮捕される。
同誌が
「進歩的思想を帯びている」
のが理由とされた。
肺結核が悪化して留置場で喀血、
釈放されたが回復せず、
3年後に62歳で死去した。
 


「釈放後、
東京・牛込の自宅を訪ねたら嶋田先生は座敷にはうように現れて。
『(なぜ捕まったか)分からん、分からん』
とつぶやいて、
こう言った。
『治安維持法のような法は必ず誇大に扱われるようになる。
君には実感がないだろうが、
わきまえておかないとひどい目に遭う』
と」
 


だから昨年の特定秘密保護法成立時も嫌な予感がした。
さらに他国の戦争に介入できる集団的自衛権行使容認の閣議決定、
地元の俳句掲載拒否問題が息苦しさを募らせる。
「秘密保護法だって必ず適当な理由を付けて拡大運用する。
特に集団的自衛権、
ありゃ何だい。
安倍さん(晋三首相)みたいに
『死の現場』
を知らねえ連中に限って、
『自衛だ』
とか言って戦争に首を突っ込みたがるんだよなあ……」。
声は時折かすれるが、
話せば話すほど、
厚いまぶたに埋まった瞳が光を帯びてきた。
 


金子さんにとって
「死の現場」
とは、
西太平洋トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)での出来事を指す。
同諸島には連合艦隊の拠点となる基地が置かれていた。

東京帝大を卒業した金子さんは44年3月、 海軍主計士官として赴任する。 基地の設営・修繕のために徴用された軍属約200人を指揮した。
 


「大学で大国が植民地争奪のために戦争する仕組みを学び戦争に批判的ではあったんです。
でも貧困にあえいでいた郷里の埼玉・秩父の大人たちが
『戦争が起きれば景気が良くなる』
と言っていたのを聞いて育って。
恥ずかしい話だが
『豊かになるなら戦争も悪いことだけじゃない』
という意識があった。
だから志願して最前線に赴いたんです」
 


高揚感は、
あっという間に崩れ去る。
赴任して4カ月後には武器や食料の補給が途絶えた。
手製の手投げ弾が作られ、
爆発実験が金子さん率いる軍属に命じられた。
「軍属は人間扱いされなかった。
だからむちゃな命令が来る。
それでタナベさんという人が志願して、
海岸で実験しようとしたら……」
 


タナベさんが持っていた手投げ弾が突然爆発した。
体が宙を舞い、
どさりと落ちた。
右腕は吹き飛び、
背中が割れていた。
近くで実験を指導していた少尉も心臓に破片が突き刺さり、
もがきながら死んだ。
初めて人の死を間近で見た瞬間だった。
「なーにが
『戦争も悪いことだけじゃない』
ですか。
自分の甘さが心底、
嫌になりましたな」
 


農業経験のない軍属を指揮してイモ栽培を試みたが、
収穫間近という段になって虫に食われて全滅。
わずかな食料も軍人に優先的に配給され、
軍属には届かない。
皆、
みるみる飢えていった。
 


「軍属たちを見回ると
『主任(金子さん)、
腹減った、
何とかしてくれー』
って細い声で言われて。
主計士官は飯を食わすのが仕事ですが、
どうしようもない。
『腹がすかないよう寝ていろ』
と命じることしかできなかった」
 


柔らかい雑草を
「南洋ホウレンソウ」
と名付け、
海水でゆでて食った。
ひもじさに耐えかねた軍属は食べ過ぎて腹を壊し、
死期を早めた。
「朝見回ると、
やせて小さくなった男たちがあちこち転がって死んじまって。
彼らは軍人じゃねえ。
食うために島に来たのに、
飢えて死ぬ。
哀れでたまらんかったなあ」
 


わずかに残った漁船で漁に出て、
米軍機の機銃掃射で死ぬ。
飢えのあまりフグを食べて死ぬ。
金子さんは
「死のオンパレード」
と呼んだ。
「いろんなことがあった。あり過ぎましたなあ……」。
豪放らい落な人柄で知られる俳人の言葉が、
そこで途切れた。
 


終戦後、
1年4カ月の捕虜生活を経て復員した。
 


水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を 置きて去る
 


自他ともに代表作として挙げる名句だ。
戦没者慰霊のために建てた墓碑を島に残し、
自分は日本に引き揚げる駆逐艦から島影を見つめる。
万感の思いを込めた。
 


この句には初めて明かされる後日談がある。
帰国前、
金子さんは地元のカナカ族の部族長に海の見える丘を指定して
「墓碑を建ててくれ」
と頼んで島を去った。
「碑は建っていると信じていた。
でも最近、
島に慰霊に行った人に聞くと、
そんな碑はどこにもないというんだ。
納得しましたよ。
実は島の日本人、
カナカ族の食料を奪っていたから。
慰霊なんてとんでもない、
彼らに恨まれていたんですね。
かっこいいことなんて何一つない。
これが戦争です」
 


今もふと、
当時の記憶がよみがえる。
耐えられなくなると、
つえにすがって立ち上がり、
死者の名前を声に出して読み上げる。
金子さんは座禅ならぬ
「立禅」
と呼ぶ。
 


「70年たってもつらいですな。
戦争で苦しむ人間は我々の世代だけでたくさんです。
なのにまた、
集団的ナントカとか妙な理屈をこねて命を軽く扱う世の中にしようとしている。
命の大切さに理屈などないんですよ。
私もあとどれくらい生きるか分からんが、
最後まで叫び続けるさ」
 


蚊取り線香をかいくぐった蚊が、
時折、
金子さんの肌に吸い付く。
ゆっくりと手をやって追い払うだけ。
一度もたたかなかった。      ◇
 


再び
「戦争のできる国」
へと近づいているように見える日本。
ほんの69年前、
異国にしかばねをさらし、
家族を引き裂かれたことを忘れたかのように。
あの時代をくぐり抜けた著名人が
「確かにあったこと」
を語り伝える。



人物略歴

かねこ・とうた
 
1919年埼玉県生まれ。
東京帝大経済学部卒。
旧制水戸高校時代に俳句作りを始める。
46年に復員後、日本銀行勤務の傍ら62年に俳誌「海程」を創刊。
中村草田男らとともに戦後俳壇をリードした。
句集に「少年」「東国抄」など。
現代俳句協会名誉会長。
2003年、日本芸術院賞受賞。



今日も、
最後までお読みいただきまして感謝いたします。
ありがとうございました。

ecar

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